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補講 作家の「文章読本」より [講座]

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① 総論
 「文章読本」の口火を切ったのは、昭和9年(1934)の谷崎潤一郎。いまだに読まれるほどの、いわば文章論のロングセラー、あるいはロングリーダーか。これ以降も多くの作家が文章について書いています。明治の評論家、高山樗牛(たかやまちょぎゅう)が「文は人なり」と説いたように、文章には小学生のきみから私のような年配者までが書くようなさまざまな個性があります。したがって、作家によっても文章に対する考え方はさまざまです。しかし、先人たちの考え方には傾聴すべき卓見が多いのも事実です。

 大谷崎(いつからかこの長老作家に大がつくようになりました)は次項②で述べるように、川端康成(1950年『新文章読本』)と共に伝統的な作風の作家ですが、その説くところも似ていて、文章に芸術的も実用的もない、「思ったことをそのまま書け」というのです。これはしかし、文章論としては最も言いやすいけれども、書くにあたっては最も難しいことではないでしょうか。「飾らずに素直に」というのですが、川端はともかく絢爛に飾り付ける文章の谷崎がこれを言うのはどうですかね。

 この両御大に異を唱えたのが、三島由紀夫(1959年『文章讀本』)。芸術的文章と実用的文章は別物だという。確かに、小説や詩歌と記録文や報道文とは違うでしょう。もちろん前二者の言わんとするのは別にあって、「文章読本」そのものの位置づけにおいては同じなんでしょう(各論に委ねます)。

その後も有名作家による「文章入門」書が続きますが、現在に至ってよく知られるのが、丸谷才一(1977年『文章讀本』)と井上ひさし(1981年『自家製文章読本』)です。特筆すべきは、丸谷が文章の句点・読点を「誰しも手を焼く難物」として取り上げていること。誰しもって、皆さん手を焼いていますか、何の気なしに、てん、まるを打っているのではありませんか。私はこの講座の初期に多分書いたと思います、「句読点は疎かにしてはいけない」と。
 一方、井上ひさしの本は独特で、私などは最も参考にしたい文章論の一つです。1981年に出た同氏の『私家版日本語文法』も味わいのある「読み物」として愛読しています。

② 谷崎潤一郎と川端康成
 両大家には共通点があるといいましたが、啓蒙書としての「文章読本」は断然谷崎のが優れています。というのは、川端が、「感動の発するするままに、思うことを素直に、解り易く」と説くのは至極まっとうな意見で、「思ったことをそのまま書きなさい」というのは戦後の作文教育でさかんに教えるようになったのですが、生徒にはこれがわからない。思ったことって?そのままって?書きようがないのです。作文教育が人間育成の一助になった反面、作文嫌いの子を生むという弊害も囁かれたのです。
 一方、谷崎の読本は、「書き終わったら声に出して読み、リズム感をチェックする」ことという独創的なものでした。なるほど、谷崎の小説は音読しても楽しく美しいものでしたからね。私も、文章は意味と共に音感を味わうものだと思っていまして、詩歌はもちろん、小説など散文でも声に出して読みなさいと教えます。
 音読に適しているのは川端の小説も同じで、特に『伊豆の踊子』などは朗読の練習にもお薦めの作品です。しかし、「感動の発するままに」というのはノーベル賞作家にはできても、私たちにはおいそれとできません。これを乱発すると、ありきたりの美辞麗句か下品な俗語の羅列になりかねないからです。

③ 三島由紀夫の『文章讀本』
 多くの作家は自分の文章体験を語ります。三島もこの本で作家の裏話、料理でいうなら隠し味を、隠さずに教えてくれます。「2,3行ごとに同じ言葉が出てこないやうに」というのもその一つ。ただしこれは作家や文章家であればだれしも心掛けているのでは。三島は「病気」と書けば次には「やまひ」と書くといい、これは「私のネクタイの好みのやうなもの」と、お得意の比喩で述べています。
 「それから」「さて」「ところで」などの接続詞は、説話体(話し言葉)的な親しみはあるが「文章の格調」を失うという。私の経験でも、小学生は「そして」をよくつかい、中学生は「しかし」を、高校生は「よって」を頻繁につかいますね。以前この講座でも書きましたが、接続詞は多用しない、ここぞというときにつかうと効果的なのです。
 三島は文章の最高の目標を「格調と気品」におくといいます。それは古典的教養から生まれるという、三島らしい主張ですね。
 もう一つ「比喩」についても核心を突いています。非常に適切な比喩は、「讀者のイメージをいきいきとさせて、ものごとの本質を一瞬のうちにつかませる」と。しかし、比喩の多用は「軽佻浮薄」にもなると、その難しさを説いています。
 ちなみに、三島作品の比喩で私が驚かされたのは、「鳴り響く沈黙(のように)」(出典は『金閣』)という表現です。これは金閣寺の静かな佇まいをそう表現したのですが、究極の誇張表現かそれとも逆説的比喩というべきか、静寂がが極まるとそれ自体が騒音なのかもしれませんね、私にはとても書けません。

④ 丸谷才一の『文章読本』
 「ちょっと気取って書け」というのがこの人独特の教えですが、真に受けると、とんでもない文章になるからご注意を。丸谷は書き方を言っているのであって内容まで気取ってしまうと、気障な駄文になりかねないのです。たとえば、「基本的人権は、これを侵してはならない」というような書き方は気取っていますね。「これ」がなくてもいいようなものですが、「これ」があることによって格調が感じられるのです。漢文調がそうですね。古典を重視する丸谷は、しかしそのあまり、歴史的仮名遣い(いふ・そのやうで・をります、など)に固執するのですが、これには賛否両方があるでしょうね。
 また、丸谷は、「思ったことを書きなさい」(川端康成が言っていました―②参照)という戦後の作文教育の在り方を否定し、言葉と現実は別物という。だから「気取って書け」というのでしょうか。「名文を読め」ということも言っていますが、これは多くの先達も言うことであって、私たち後発の文学青年が、名文を読み名文を書き写して練習したものです。

⑤ 井上ひさしの「文章読本」
 劇作家でもある井上ひさしは、言葉に厳しく言葉に鋭敏です。かれらしくユーモアを交えて平易に語る(書くのではなく、まさしく語っている)文章論は、現代の若者にも理解されるのではないでしょうか。その文章論は一転、日本人論にもなっているのです。それはかれの教材が、文学作品に止まらず新聞記事、ひとの日記、広告コピーの類に及んで、日本人の様々な生活断面から切り取っているからです。
 いろいろな文章場面にあたって、既成の文法にまでちょっかい?を出しています。前述しました(①総論)『私家版日本語文法』と併せてお薦めするゆえんです。かれが真顔で?言った言葉、「自分自身の感性、思想を持つこと」というのが、谷崎以来の普遍的かつ最も重要な教えだと、私は結論付けてこの「読本」を終わります。(完)


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 以上で私の「文章講座」を終了します。国内外は依然として新型コロナウイルスの渦中にあります。十分に学ぶ機会のない中で、中学・高校生から大学生の皆さん、そして広く文章を学ぶ方への一助になればと始めた講座ですが、もとより学びはあなたご自身の内にあることを知っていただきたいと思い、拙稿を終えることにいたしました。ご健闘を祈ります。(講師)
通天橋を望む.JPG(京都・東福寺)

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