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補講 作家の「文章読本」より [講座]

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① 総論
 「文章読本」の口火を切ったのは、昭和9年(1934)の谷崎潤一郎。いまだに読まれるほどの、いわば文章論のロングセラー、あるいはロングリーダーか。これ以降も多くの作家が文章について書いています。明治の評論家、高山樗牛(たかやまちょぎゅう)が「文は人なり」と説いたように、文章には小学生のきみから私のような年配者までが書くようなさまざまな個性があります。したがって、作家によっても文章に対する考え方はさまざまです。しかし、先人たちの考え方には傾聴すべき卓見が多いのも事実です。

 大谷崎(いつからかこの長老作家に大がつくようになりました)は次項②で述べるように、川端康成(1950年『新文章読本』)と共に伝統的な作風の作家ですが、その説くところも似ていて、文章に芸術的も実用的もない、「思ったことをそのまま書け」というのです。これはしかし、文章論としては最も言いやすいけれども、書くにあたっては最も難しいことではないでしょうか。「飾らずに素直に」というのですが、川端はともかく絢爛に飾り付ける文章の谷崎がこれを言うのはどうですかね。

 この両御大に異を唱えたのが、三島由紀夫(1959年『文章讀本』)。芸術的文章と実用的文章は別物だという。確かに、小説や詩歌と記録文や報道文とは違うでしょう。もちろん前二者の言わんとするのは別にあって、「文章読本」そのものの位置づけにおいては同じなんでしょう(各論に委ねます)。

その後も有名作家による「文章入門」書が続きますが、現在に至ってよく知られるのが、丸谷才一(1977年『文章讀本』)と井上ひさし(1981年『自家製文章読本』)です。特筆すべきは、丸谷が文章の句点・読点を「誰しも手を焼く難物」として取り上げていること。誰しもって、皆さん手を焼いていますか、何の気なしに、てん、まるを打っているのではありませんか。私はこの講座の初期に多分書いたと思います、「句読点は疎かにしてはいけない」と。
 一方、井上ひさしの本は独特で、私などは最も参考にしたい文章論の一つです。1981年に出た同氏の『私家版日本語文法』も味わいのある「読み物」として愛読しています。

② 谷崎潤一郎と川端康成
 両大家には共通点があるといいましたが、啓蒙書としての「文章読本」は断然谷崎のが優れています。というのは、川端が、「感動の発するするままに、思うことを素直に、解り易く」と説くのは至極まっとうな意見で、「思ったことをそのまま書きなさい」というのは戦後の作文教育でさかんに教えるようになったのですが、生徒にはこれがわからない。思ったことって?そのままって?書きようがないのです。作文教育が人間育成の一助になった反面、作文嫌いの子を生むという弊害も囁かれたのです。
 一方、谷崎の読本は、「書き終わったら声に出して読み、リズム感をチェックする」ことという独創的なものでした。なるほど、谷崎の小説は音読しても楽しく美しいものでしたからね。私も、文章は意味と共に音感を味わうものだと思っていまして、詩歌はもちろん、小説など散文でも声に出して読みなさいと教えます。
 音読に適しているのは川端の小説も同じで、特に『伊豆の踊子』などは朗読の練習にもお薦めの作品です。しかし、「感動の発するままに」というのはノーベル賞作家にはできても、私たちにはおいそれとできません。これを乱発すると、ありきたりの美辞麗句か下品な俗語の羅列になりかねないからです。

③ 三島由紀夫の『文章讀本』
 多くの作家は自分の文章体験を語ります。三島もこの本で作家の裏話、料理でいうなら隠し味を、隠さずに教えてくれます。「2,3行ごとに同じ言葉が出てこないやうに」というのもその一つ。ただしこれは作家や文章家であればだれしも心掛けているのでは。三島は「病気」と書けば次には「やまひ」と書くといい、これは「私のネクタイの好みのやうなもの」と、お得意の比喩で述べています。
 「それから」「さて」「ところで」などの接続詞は、説話体(話し言葉)的な親しみはあるが「文章の格調」を失うという。私の経験でも、小学生は「そして」をよくつかい、中学生は「しかし」を、高校生は「よって」を頻繁につかいますね。以前この講座でも書きましたが、接続詞は多用しない、ここぞというときにつかうと効果的なのです。
 三島は文章の最高の目標を「格調と気品」におくといいます。それは古典的教養から生まれるという、三島らしい主張ですね。
 もう一つ「比喩」についても核心を突いています。非常に適切な比喩は、「讀者のイメージをいきいきとさせて、ものごとの本質を一瞬のうちにつかませる」と。しかし、比喩の多用は「軽佻浮薄」にもなると、その難しさを説いています。
 ちなみに、三島作品の比喩で私が驚かされたのは、「鳴り響く沈黙(のように)」(出典は『金閣』)という表現です。これは金閣寺の静かな佇まいをそう表現したのですが、究極の誇張表現かそれとも逆説的比喩というべきか、静寂がが極まるとそれ自体が騒音なのかもしれませんね、私にはとても書けません。

④ 丸谷才一の『文章読本』
 「ちょっと気取って書け」というのがこの人独特の教えですが、真に受けると、とんでもない文章になるからご注意を。丸谷は書き方を言っているのであって内容まで気取ってしまうと、気障な駄文になりかねないのです。たとえば、「基本的人権は、これを侵してはならない」というような書き方は気取っていますね。「これ」がなくてもいいようなものですが、「これ」があることによって格調が感じられるのです。漢文調がそうですね。古典を重視する丸谷は、しかしそのあまり、歴史的仮名遣い(いふ・そのやうで・をります、など)に固執するのですが、これには賛否両方があるでしょうね。
 また、丸谷は、「思ったことを書きなさい」(川端康成が言っていました―②参照)という戦後の作文教育の在り方を否定し、言葉と現実は別物という。だから「気取って書け」というのでしょうか。「名文を読め」ということも言っていますが、これは多くの先達も言うことであって、私たち後発の文学青年が、名文を読み名文を書き写して練習したものです。

⑤ 井上ひさしの「文章読本」
 劇作家でもある井上ひさしは、言葉に厳しく言葉に鋭敏です。かれらしくユーモアを交えて平易に語る(書くのではなく、まさしく語っている)文章論は、現代の若者にも理解されるのではないでしょうか。その文章論は一転、日本人論にもなっているのです。それはかれの教材が、文学作品に止まらず新聞記事、ひとの日記、広告コピーの類に及んで、日本人の様々な生活断面から切り取っているからです。
 いろいろな文章場面にあたって、既成の文法にまでちょっかい?を出しています。前述しました(①総論)『私家版日本語文法』と併せてお薦めするゆえんです。かれが真顔で?言った言葉、「自分自身の感性、思想を持つこと」というのが、谷崎以来の普遍的かつ最も重要な教えだと、私は結論付けてこの「読本」を終わります。(完)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 以上で私の「文章講座」を終了します。国内外は依然として新型コロナウイルスの渦中にあります。十分に学ぶ機会のない中で、中学・高校生から大学生の皆さん、そして広く文章を学ぶ方への一助になればと始めた講座ですが、もとより学びはあなたご自身の内にあることを知っていただきたいと思い、拙稿を終えることにいたしました。ご健闘を祈ります。(講師)
通天橋を望む.JPG(京都・東福寺)

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《資料》天声人語(朝日新聞)から [講座]

 入試小論文の練習用に、朝日新聞のコラム『天声人語』が昔からよく用いられてきました。私も、高校や予備校で指導する際よく活用したものです。特に時事問題に関しては「社説」より平易な文体、語彙が特徴であるコラムの文章は、字数も少なく(600字程度)中学・高校生にはとっつきやすいのです。ただ字数が少ない分、筆者の巧みな表現で語られるので、そのテーマや論理を見逃さないことが肝要です。
 ここではその『天声人語』から1つ、時事問題にして普遍的な問題でもある「核兵器」を取り上げてみました。なお、この問題(核の問題)は見方によっては民意を二分していますが、あえて文章の素材として引用しましたので、皆さんの頭で皆さんの文章で考えをまとめてください。

「天声人語」
 原爆が投下されて1年が経った1946年の8月6日、広島市で「平和復興祭」という名の催しがあった。犠牲者の慰霊だけでなく祝祭の趣があったようで、花電車が走り、仮装行列が見られた▼着飾った少女たちの行列もあり、三味線や太鼓も出ていたと、その日広島を訪れた中国配電(後の中国電力)の岡山支店長が書き残している。かなりの違和感を覚えたらしく「広島市の人々は一体何を血迷ってのこのお祭り騒ぎであろうか」と綴っている(宇吹暁(うぶきさとる)『ヒロシマ戦後史』)▼当時は連合国軍の占領下にあり、原爆への批判は許されなかった。被害より復興に焦点を当てたいという気持ちもあったろう。それにしても現在の原爆忌とはあまりに違う。▼核兵器を絶対悪ととらえる考え方は時間をかけて育まれてきた。ビキニ環礁(*南太平洋)で米国が行った水爆実験(*1954年3月1日)の衝撃が、原爆の災禍を改めて思い起こさせた。多くの原爆文学、そして被爆者の手記や証言が人々の心を揺さぶった。流れの先に核兵器禁止条約がある▼条約は今年(*2021年)1月に発効し、55の国と地域が批准している。「核兵器の終わりの始まりだ」とは広島の被爆者でカナダ在住のサーロー節子さんの言葉である。悲しいのは、日本政府がこの条約に背を向け続けていることだ。核保有国の米国に追随するかのように▼きょうの平和式典で、首相(*菅前首相)は前任者(*安倍元首相)と同じく条約に言及すらしないのだろうか。占領下で米国の顔色をうかがわざるをえなかった時代は遠く過ぎたはずなのに。(2021・8・6)
 *は当講座による㊟です。なお、2022年現在の岸田首相も8月6日広島及び9日長崎において核兵器禁止条約の批准については言及しませんでした。文中の▼は、句点と改行の印でしょう。

 この文章をもとに次のように練習してみてください。

1<要約文>要約とは、要点を約(つづ)めることだから、事実のみを書き、感想等は不要です。
問題:この文章を200字、及び400字に要約せよ。(指定の字数の8~9割は必要、字数過多は減点、または0点。)
 ヒント:400字の場合は、全体の3分の2だから、かなりの部分を引用できますが、200字では、思い切って絞り込む必要があります。どちらも、文章として完成していることと、必須語句(「原爆投下」「核兵器(禁止条約)」等)を書き落とさないこと。

2<意見文>あなたの「意見」を書きますが、提示された文章(『天声人語』)の素材から離れてはいけない。
問題:この文章をもとに、あなたの意見を800字以内で述べよ。(字数は8割が目標)
 ヒント:あなたの意見を補強し、あるいは発展させるために素材を生かすのが賢明で、話題を拡大し、また逸脱することは避けること。しかし、原文を引き写すだけでは、得点は得られません。たとえば、戦争反対の立場から、条約に賛成(または反対)する場合は、その根拠を明確にして独自の意見を述べるのが求められるところです。
                              (以上でこの章終わります)

 



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第五章 入試対策/練習課題  [講座]

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 本講座は広く一般に文章を書く人のための入門講座ではありますが、入学試験・入社試験で課される作文・小論文においても文章の心得として同じものであるはずです。そのことを踏まえたうえで、実際的な課題の形態をご案内するのが、この章の目的です。

入試小論文ガイド

 では、入試といわれるもの、特に作文や小論文が課される入試にはどういうものがあるか、次に列挙しますと、一般の入学・就職試験のほか①推薦入試、②看護系の大学・学部、③短大から四年制への編入試験などは従来からあり、近年は④総合型選抜(旧のAO入試)で小論文が必須です。

 また、小論文の傾向と対策としての文献は各種あり、ここでは深入りしませんが、具体的な課題の中で私が注目するのはやはり、「SDGs」(エス・デイー・ジーズ)すなわち持続可能な開発目標(GsはGoals)というキーワードです。
 *2015年9月に国連サミットで採択された、加盟国193の国が2016~2030の15年間で達成するための17項目の国際的な課題をいう。
 
 これを題材とした小論文の出題予測を中心に、レッスンのための課題を3つの角度から例示し、また、後半で学部別にその出題例を挙げておきましたので、練習の参考にしてください。

Ⅰ 段階別出題例
 ① 入門小論文 ア 人間が幸福になるためには、自然に従わなければならない。
         イ 人間が幸福になるためには、自然を征服しなければならない。
                  *立場を変えてア、イの両方を書いてみる。(各400字)

 ② 基礎小論文 ア 「私」小論文 あなたは何者か(スタイル、内容は自由、作文も可)
         イ 願書 小論文 大学で何を学びたいか(志望動機のつもりで書く)
         ウ 条件 小論文 21世紀はどんな時代か
                  条件1 ○○の時代と名付ける。
                    2 経過した時代と将来する時代を関連付ける。
                                  (ア~ウは各600字)
 ③ 時事小論文 ア 要約する  朝日新聞のコラム『天声人語』からよく出題される。
                                *章末に参考文を掲示します。
         イ 資料を読む <予測>世界の少子化対策を調べる。
                    *わが国では2023.4に「こども家庭庁」が新設される。
         ウ 論述する  前述の「SDGs」から出題されることが予測できる。
           <例>・貧困と教育の格差 ・ジェンダーの平等 ・気候変動対策 等々

Ⅱ 学部別出題予想(キーワード)
  
  文学・語学・教育系 
         ① ことばと人間関係(方言・敬語・外来語・ホームステイ等)
         ② グローバリゼーション(文化交流・国際化・移民と難民等)
         ③ 表現の自由の問題(SNSの功罪・少数意見・多様性とは等)
  法学・経済・社会系
         ④ 民主主義の現実(強権政治・地方自治・説明責任とは等)
         ⑤ 貧困と格差(課税のあり方・健康と福祉・公平と公正等)
         ⑥ ジェンダーの平等(夫婦別姓・グラフで見る男女格差等)
  理工・医薬系
         ⑦ クリーンエネルギー(気候変動対策・再生可能エネルギー等)
         ⑧ 新型コロナウイルス(命と暮らしを守る?医療崩壊等)
  その他総合    
         ⑨ 情報化社会(デジタルとアナログ・ITとプライバシー等)
         ⑩ ボランティア活動(有償と無償・自由のかたち等)

       


                  


 




 
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二 高校生の小論文から [講座]

 ここからは高校生の小論文です。紹介するのは、私が担当した某大手予備校の高校部クラスのものです。生徒からたびたび質問されるのが、作文と小論文との違いです。簡潔にいいますと、「私」のある文章が作文、「論」のある文章が小論文です。小といえども論文はまず、客観性のある論理が必要です。小論文的作文は可能です(科学エッセイのように)が、作文的小論文は不可、独りよがりに陥るからです。

Ⅰ 小説から
課題:夏目漱石の『三四郎』の次の場面を読んで、三四郎と美禰子の心理を二百字以内で分析せよ。
                                   (某大学受験クラス)
㊟ 200字ですから小論文というより「記述問題」のレッスンですが、小論文の要領と同じです。なお、200字以内とは、180字以上で可ですが100字以上は不可となります。

《場面》学問の志をもって田舎から東京へ出てきた主人公、三四郎にとってはなにもかも新しい世界であった。中でも華やかな女性との出会いに心躍らせながらも、うぶな三四郎はどう対処していいかわからず、相手の美禰子に「ストレイ・シープ」(迷える子羊)とささやかれてしまう。
 そんな二人のある場面—(例:新潮文庫『三四郎』100頁以降)の会話を参考に、あなたもレッスンしてみてください。

羊座3,4月.JPG

解答例

 二人の間の主導権は美禰子にある。三四郎は彼女の言動に振り回され、戸惑いを感じている。それは「ストレイシープ」という彼女の言葉に困っている様子にも現れている。三四郎は女性にうとい、うぶな性格で、彼女の繊細な心の動きについていけない。一方、美禰子は近代的な女性。その言葉はころころと変化する。そんな女を懸命に理解しようとして、三四郎は一種の「迷子」になっている。(高3女子)
《評》みごとな分析ですね。キーワードの「ストレイシープ」をうまく使ています。美禰子—女性ー女という3通りの使い分けは、意図的でしょうか。たとえば、女性ー一般化、女ー男との対比を意図しているなら、文章テクニックもなかなかのものです。

解答例

 三四郎は何事にもぶきっちょである。しかし、純粋で可能性に満ちた青年である。それに対して美禰子は、自由気ままに日常をおくっている。そして彼女はまた、プライドが高く、華やかに振る舞う。そんな美禰子に三四郎はひそかに惹かれているが、彼女のはきはきとした物言いにおどおどし、きりきり舞いさせられている。(高3女子)

《評》対照的な二人の人物の性格を前提に、結論を合理的に導き出しています。「ひそかに惹かれている」とは、男性心理を鋭く捉えていますが、美禰子のほうはどうだったのでしょうか。(全員女子のクラスでしたが、どちらかというと美禰子の心理が少し難しいようでした。)

次回はⅡ 論説から 




 
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一、小・中学生の作文から [講座]

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<小学部>
 課題Ⅰ 「ふと・・・」から始まる作文(短文の練習)

❶ ふと気がつくと、道端のアスファルトの間に一輪の花がありました。この花はなぜそこまでして生      きようとするのか、そう考えると、花が「死にたいなんて、絶対に思ってはいけない」と言っているように思えました。一番大切なことを教えてくれた花よ、ありがとう。(6年女子)

<評>短文であっても、「はじめ・なか・おわり」の組み立てができていますね。

❷ ふと、ぼくは思った。なぜ宇宙ができ地球ができ人類が生まれ、そしてぼくがいるのか。こんな長い年月を経て今があるのは、ものすごく確率が低いことだ。もし、宇宙や地球や人類がなかったらと考えると、ぼくや友達がいなかったことになり、怖くなってしまう。(6年男子)

<評>小学生らしい疑問を書いていますが、書くことによって考えるという動作につながっています。

➌ ふと気がつけば雨に打たれ、ふと気がつけば風に吹かれ。空には雲が浮き、海には波が行ったり来たり。たくさんの人が住んでいて、笑顔がこぼれている。「ここはどこだろう」。(6年女子)

<評>想像力の豊かさが感じられます。文の止め方(吹かれ・来たり)が詩のようですね。

課題Ⅱ 意見文「ゴミについて」

❶ 今の世の中、人間が好きなようにしています。だから、ゴミもたくさん出ます。ゴミがたくさん出ると、それを処理するところから煙が出ます。その煙を人間が吸うと、体にわるいです。でも、それは人間のせいです。(5年女子)

<評>5年生ながら、意見文に必要な論理的文章になっていますね。主題も一貫しています。

❷ よく家庭ゴミを収集日に出していないのを見かけます。そのゴミをカラスが散らかしたり、火災のもとになったりします。解決方法は、ゴミを出す日を守り、余分なものを買わず、まだ使えるものはリサイクルすることです。(6年女子)

<評>身近な話題を具体的に提示しているので、説得力があります。文法の破綻のないきれいな書き方です。

➌ ぼくの家の近くに、エコランドというゴミ捨て場ができました。それは山の谷間にあります。ぼくは、自然の中にこんなものを造るのは反対です。それより、一人一人がものを大切に使う気持ちが大切だと思います。(6年男子)

<評>体験や見聞から書き始めるのが得策です。そこから(反対)意見を明確にしています。

<中学部>
課題Ⅰ じっと手を見る  
 はじめに―「じっと作文」と名付けました。文章を書くとは対象を映す行為です。何を見、そこから何を考えるか、それが文章に現れます。見る対象はなんでもいいのです。広くは世界そして社会から身近なものごとまで、あるいは観念や想像の世界も、そのことを「じっと」直視しないと、本物は現れません。そのものの本質が見えてくると、本物の文章が書けます。昔から、目利きとか目が高いとか目が肥えているとか言われますね。それはモノをよく見ている人のことをいうのです。文章がうまいと言われる人がよく陥るのが、知ったかぶりということです。文章の書き方は上手なんですが、表面的にすぎるのです。むしろ、知らないことを知らないままに疑問点を見つけられれば、それはやはりモノをよく見ているということですね。では、最も身近なあなたの手を「じっと」見てみましょう。

❶ 手をじっと見ていると、わずかなしわにも、これまで生きてきた年月が感じられる。そして手は、あるときは人を助ける勇気になり、あるときは自分自身を励ます活力になる。もしかすると手は、人間を成長させてくれるものかもしれない。(中略)ふだんあまりじっくり見ない手を通じて、いろいろと考えることができた。(中3女子)

<評>上手な書き方ですね。でも、「これまで生きてきた~」とか「もしかすると~」とかは、この課題からすると、頭で考えすぎです。手という対象に迫って「見る」ことに集中してほしいです。

❷ 私は、自分の手をじっと見つめてみた。爪の形が母とそっくりだ。こんなところまで似ているとは、おかしくなってしまう。人間とは不思議な生き物だと思った。(中略)親子には血のつながりがある。そして、他人同士にはない強い力が働く。けっして切ることのできない強い力を持っている。(中3女子)

<評>❶とは対照的に具体的な描写から書き出して、それが「不思議な~」という感想に結び付いていますね。作文の一つの典型です。ただ後半の「強い力」は、具体性に欠けて、やや分かりにくいです。

➌ じっと手を見ると、さまざまな思いが頭に浮かんでくる。父の仕事の関係で、ぼくはたびたび「別れ」を経験した。そして涙した。その涙をぬぐったのはぼくの手である。そのたびにぼくの手は強くなった。そしてぼくの心も強くなった。(中3男子)

<評>❶と同じように上手な文章ですね。「涙をぬぐう手」という着想がいい。この着想から「別れ」というもう一つの着想が生まれたのでしょう。この別れは父の転勤による転校、友達との別れが容易に理解できますね。

<まとめ>この課題には「落とし穴」があります。「手」という素材からは、詩の題材になるような感情と結び付けやすいからです。観察よりも観念(考え)で書いてしまう安易さがあります。だから一見上手な文章でありながら、内容に乏しい場合があります。文章はまずデッサン(よく見て書く)が大切であるということを知ってください。

課題Ⅱ 感想文―石川啄木(豕の部分は略字)の短歌より

 みんなで啄木の『一握の砂』を読み合わせ、その中から各自好きな短歌を選んで感想を述べるというもの。よく、生徒に感想文を押し付けるのはよくないとか、作文などは好きなように書かせたらよいとか、評論家や作家などが発言していますが、その根拠は示さない、言いっぱなしです。自分はそうやってきたと、自分流を押し付けています。「押し付け」は何事によらずよくないわけで、「好きなように」書ければレッスンなど要らないわけです。レッスンなしに上達するものはこの世にありませんよ。
 まずは生徒たちの発想の豊かさを見てください。
 *啄木は短歌を三行に分ける三行詩に特徴がありますが、ここでは五七五と七七を分かち書きにしました。

《選んだ短歌》大といふ字を百余り砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり
感想❶ 啄木の詩(短歌)には、死という字がよく出てきます。死について本気で考えていたんだと思います。(中2女子)
感想❷ 大という字の大きさ、自由さに自分(作者)は情けなくなった。しかし、この「大」の一文字が、啄木を立ち直らせたのだと思う。(中3男子)

《選んだ短歌》こみ合へる電車の隅にちぢこまる ゆふべゆふべの我のいとしさ
感想➌ このような啄木は、常に世間に遠慮して生きていたのではないか。孤独がそうさせたのかもしれない。(中3男子)

《選んだ短歌》しつとりとなみだを吸へる砂の玉 なみだは重きものにしあるかな
感想❹ この日の啄木は、好きな人に自分の気持ちを伝えられないまま別れてしまったという口惜しさと、自分の愚かさに悲しくなって砂浜に出た。そして、砂に吸われる涙を見て、その悲しみの重さを感じたのです。(中3女子)

*原文の短歌は文語で書かれていますが、中学生は難なく読み切っています。私は文語と口語の主な相違点を説明しただけです。

(次項—高校部へ)






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第四章 実践編—生徒作品から [講座]

 ここからは、過去の私の「文章講座」で実際に教室で生徒たちが書いた作文・小論文を紹介し、短評をつけた「書き方」の指標とします。小・中・高校生の皆さん、あるいは文章の勉強をしようという皆さんんの参考になれば幸いです。
 なお、紹介した作品はレッスンのための文章であり、また紙面の都合で字数を制限、または省略などのアレンジをしていますので、ご了承ください。

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雑談の時間/書き順って、必要なの? [講座]

長らくお待たせしました。講座を再開します。再開に当たって少し雑談を・・・

このIT全盛の時代に、「書き順って必要なの」という質問をよく受けます。ある新聞の投稿欄でも、若者からは、「そんなの必要ないよ」という声があり、高齢者の「気にしなくていいのではないか」という遠慮がちな投稿もありました。ちかごろどうも「べつにいいんじゃないの」という物分かりのいい意見がどの分野にもあるようで、私は少し不満なのです。べつにいいなら何でもいいわけで、芯の抜けた植物のようで、しゃきっとしない、へなへなした生き方のようですから。
 文字・漢字の書き順は日本文では、上から下、左から右、中から左右、短から長へという基本があります。この基本は文章が縦書きから横書きに変遷するうちに軽視され、また電子化などの利便性とともに書き手に意識されにくくなってきているようです。しかし、書き順・筆順はその名の通り筆の運び方に合理的な順序があって成り立ってきたものです。その要件はやはり書きやすいし覚えやすいし、美しいということにあるのです。
 私など、筆順を間違えると書けなくなる漢字がいくつもあります。たとえば、「飛」という字、上の部分を一つ書いたら次に真ん中の縦棒にいかないと、ぐちゃぐちゃの字になります(笑)。また、「馬」はタテヨコタテヨコヨコの順にしないと、草書が書けません。
 小学校時代に習ったものは、自転車でも水泳でも、詩でも言葉でも、基本は忘れないものですね。あとはあなたの心がけ次第、しゃきっと立ち向かえば、「いいんじゃない」かどうかわかりますよ。(筆者)文具1.JPG
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《特集》気になる言葉遣い―話し言葉と書き言葉のずれ [講座]

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 ここで授業の合間の雑談風に生徒諸君と話し合いましょうか。「言葉の乱れ」といって、古い人間(私もそう)から苦言を呈することがよくありますが、「乱れ」とは何を指すのかはっきりしません。
 しかし、やり玉にあがるのは大方は巷の挨拶言葉、話し言葉のたぐいです。これをもって言葉の乱れというのは、世の中の乱れほどの大事とは思われません。
 私からすると、それは、話し言葉と書き言葉との乖離からくるものだと思います。したがって、その賛否を問う前に乖離の原因をつきとめて、直せるものなら直していこうというのが、私の考えです。
 次に例として挙げるのは、私が日常に見聞したものから抜粋したもので、このほかにもあなた方が「気になる」言葉遣いがあれば、その原因を検討してみてください。なお、その原因の多くは文法的な「ずれ」にあると思われますので、中学生程度の文法書(活用表など)を用意しておくとよいでしょう。

(1)まず、日本人の美徳である「丁寧さ」「相手を思いやる」「自分を遜(へりくだ)る」という心情から、おもに「話し言葉」による「不自然な」言葉遣いの例。

❶ ご注文は「よろしかったでしょうか」(よろしかった、が不自然)。
 目の前の現在の対応だから、「よろしい」でよい。または、過去のことに対応するなら、「よかった」でもよい。「よい」の丁寧体が「よろしい」であり、確認の「た」であれば、許容されるという見方もできます。改善例、「よろしいでしょうか」。

❷ レジで「1万円からお預かりします」(から、がおかしい?)
 預かるのは「お客さんから」である。1万円から「差し引く」意味で言うのでしょうが、略しすぎ。「預かる」のもおかしい、返さなければならないから。真意は「ひとまず1万円をお預かりしますが、そこからお支払い願います」。そんなこと双方わかっていること。改善例「1万円からお支払いですね」。

➌ 「~させていただきます」という言い方は巷にあふれています。
 これは自分を「使役」したうえ謙譲の語句を添えるという(外国人ならずとも)難解な話法なのです。まず、1.「食べさせていただく」(食べる、は下一段活用)2.「歌わさせてください」(歌う、は五段活用)3.「役立たせて~」(役立つ、は五段活用)のうち間違いは何番でしょうか。もうわかりますね、2が不自然ですね。どうしてでしょうか。ひところ「ら抜き言葉」(見れる、出れる、など)が問題になりましたが、近頃では気にならないという人が多くなりました(私は気になる派です)。今回は「さ入れ言葉」です。余計な「さ」が入っているのは2ですね。なぜなら、五段活用(と、サ変)の動詞には「せる」、それ以外(上一段、下一段、カ変)の動詞には「させる」という「使役」の助動詞がつくのが自然だからです。
 一つ問題は3です。「役立つ」は五段活用ですが「役立てる」というと下一段の動詞だから、次のようにつかうのが正しい。「~が役立たせる」(自動詞として)「~を役立てさせる」(他動詞として)問題:「私に話させてください」の文には「せる」「させる」のどちらが接続しているか。

❹ 「~のほう」という言い方も気になります。
 ほうは多分「方」の意味でしょうか、「右の方へ曲がります」「大きい方をください」などのように方角や比較を示す場合に使いますが、「お体の方はいかがですか」になると少しあやしくなります。前の2つもあわせて、いずれも方がなくても意味は通じるのです。これらの類推で「営業の方の仕事」「お値段の方は~です」「食事の方はもう済みましたか」などと使われるのだと思います。場面によっては「大きい方」と同じように何かと比較して言うこともあるでしょうが、やはりなくてもよい方ですよね。日本的な「婉曲的な」言い方で話法を和らげている、というのが私の見解です。

(2) 日本人とくに若い人は<形容詞>が苦手なのではないかというのが、私の感想です。次に気になる言葉遣いの特徴は、形容詞がらみの例です。

❺ 「すごいおいしい」という言い方が気になる、え、「普通に」言ってる? 「すごいおいしい匂いがする」の場合、すごいという形容詞は匂いにかかるともいえますが、ここは「すごくおいしい」というのが正しいのです。
 つまり「すごい」は連体形の形容詞だから、すごい音、すごい人のように体言の語にかかりますが、何かを形容する(詳しく言う)場合は「すごく」という連用形のほうがよいのです。連用形は他の用言(形容詞・形容動詞や動詞)にかかるので「すごくおいしい」「すごく静かだ」「すごく感動した」のようになりますが、あまり上手な表現ではありませんね。多分、「すごい」や「すごい」を副詞的(ものの程度)につかっていると考えられますが、「すごくすごい」表現ですよね。

❻ 「知らなさそうだ」はどうでしょうか。文法書には、「よい」と「ない」という2音の形容詞に「そうだ」が続く場合は、よいそうだ、ないそうだとなり、「伝聞」(間接推量)の意味になりますが、「様態」(直接推量)との区別ができないので、後者には間に「さ」を入れることになって、私たちは自然に「よさそうだ(です)」「なさそうだ(です)」とつかっています。
 それで助動詞の「ない」の場合に、この類推で誤りが生じるのです。助動詞のないにそうだをつける場合は、助動詞の語幹+そうだ(そうです)で「~なそうだ」となり「さ」を入れません。例えば、「知らなそうだ」「雨はふらなそうです」などと用います。少し不安定な語になるのでつい、「何も言わな(さ)そうです」と「さ」を入れてしまう、そんな文法なんて、あなたは「知らなそうです」ね。

❼ 丁寧過ぎて誤るのが、「とんでもございません」。これは「とんでもない」という形容詞だから、これを丁寧に言うなら、「とんでもないことです(でございます)」が正しい。
  これに類した言葉に「おぼつかない」があり、これを文語的に「おぼつかぬ」と否定の助動詞「ぬ
」をくっつける用法が、時代劇ドラマでもみられます。また「やるせない」を「やるせぬ」思い、などとつかうのも誤用です。いずれも、おぼつく(覚束)+ない(ぬ)、やるせ(遣る瀬か、古文では「遣る方無し」)+ない(ぬ)と解釈できなくはない。

❽ さらに、「難しい形容詞」の例として「好きくない」がある。つくづく上手い誤用だなあと、私は感心しましたよ。上手い誤用とはずるい言い方ですが、本来の「好きではない」では話し言葉としては堅苦しいと若者らしい発想で、うまく略語にしたんだと思ったからです。形容詞は「かろ、かっ・く、い、い、けれ」と活用する。「好き」を形容詞並みに連用形にすると「好きく」になる。ところが好きという語は形容詞ではなく「形容動詞」なのです。形容動詞は「だろ、だっ・で・に、だ、な、なら」と活用する、その連用形は「好きで」となる。
 では「欲しくない」「嫌いくない」「きれいくない」はそれぞれ正しいか正しくない(「正しくない」は正しい)か、答えなさい。

※➌の答え 「話させる」を分解すると、「話す」(五段活用の動詞)の未然形「話さ」に「使役」の助動詞「せる」がついたもの。また、サ変動詞の「する」に使役がつくと「さ+せる」であり、五段動詞とサ変動詞以外の上一段動詞「見る」、下一段動詞「出る」、カ変動詞「来る」にはそれぞれ「させる」が接続し、見させる、出させる、来させるとなる。

※❽の答え 「欲しい」は形容詞の連用形「欲しく」だから正解。「嫌い(だ)」「きれい(だ)」は形容動詞だから、その連用形は「嫌いで(ない)」「きれいで(ない」と用いるのが正しい。

(3)ここまでは、主として文法的な類推によるヘンな言葉を挙げましたが、「おかしな日本語」は他にもあります。いくつか紹介しましょう。*なお、「おかしな」は活用のない「連体詞」です。「おかしい」(形容詞)とは別です。

❾ 「耳障りがよい」と喋る人がいますが、私には「耳障り」で仕方がない。「障り」という漢字でもわかるように、耳に障りがある、感じがわるいという場合に使ってほしい。おそらく、「肌触りがよい」という言葉からの誤用でしょう。

❿ おなじく「生きざま」という言葉は、本来ありません。なにか悪い生き方でもしたかのように聞こえて気に障ります。「ざま」は様で、在り様なのですが、それが濁ると、「ざまを見ろ」「無ざま」となり、ついには「死にざま」と悪く言われます。ここは「生き方」「生きる姿」としたほうがよいと思います。

⓫ 文頭の接続詞の「なので」が気になります。話し言葉としては普通に使われていますが、せめて書くときは、「だから」「したがって」を使いたい。「文頭の」としたのは、文中で接続助詞として使う場合は、「夜中なので~」と使ってもおかしくはないのですが、これは「夜中だ」+「ので」であって、「なので」ではないのです。つまり、この「な」は断定の助動詞「だ」の連体形なのです。
 だから、文頭で助動詞から入るのはまずい。「だので」という意味だから、前文の文脈からわからなくはないですが、今はやりの略語めいて、品がない言葉だと私は思います。

⓬ 最後に、とっておきの「おかしい」「おかしくない」どちら? という言葉を一つ。
 「申される」、どう思いますか。「うちの社長が申されるには」と。いいんじゃない、丁寧で? 原則的に二つ間違っていますね。身内に敬語(でしょう?)をつかうこと、「申す」は謙譲語だから+尊敬の「れる」は相反する。
 これが「お申しつけください」になると、さらに突っ込みたくなります。申す(謙譲語)+「お」(美化語)はなじまない。「お~ください」は尊敬語の形だから、「申しつけ」がよくないのか。しかし、昔からこの語は便宜に使用されていて、「申しつける」「申し渡す」などと時代劇でもおなじみですね。上の者が謙譲語というのもヘンだが、「申し立てる」「申し込む」なら、ヘリ下る意になります。そもそも「申す」言葉は謙譲語というより、接頭語的な<常套句>であったのかもしれない。
 そこで、<改訂された敬語の種類2007年>(第二章の資料編参照)を改めて見ますと、従来は「謙譲語」は1つでしたが、新分類では謙譲語ⅠとⅡに分けられます。Ⅰは、「ご案内」「お手紙」(を差し上げる)のように相手をたてて述べる場合です。謙譲語Ⅱは、「参る」「申す」のように相手のためにへりくだって述べる場合で<丁重語>という新しいカテゴリに属します。しかし、「申し上げる」となると、Ⅰ、Ⅱどちらともいえます。
 したがって、例の「お申しつけください」は、尊敬語の形をとりながら、「申しつける」=「申し受ける」という丁重体にもなるという、うまい表現ともいえるのではないでしょうか。
(これで「特集」は終わります)
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*「文章講座」はしばらくお休みしています。続編を準備して3月中に再開いたします。(講師より)
 




 

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二、名文・名言に習う [講座]

 次に掲げるのは、日本の近代文学と外国文学から抜粋した、いずれも定評のある名文・名言を集めたものです(昭和後期、平成の作品は評価が定かではないので除外しました)。もとより有名な作品ばかりですので、引用する場合は、必ずそれらの作品に直接あたってください。なお、表記は、旧字体の漢字以外は原文のままにしましたので、現代仮名遣い・送り仮名とは異なりますから注意してください。
 「名文に習う」としたのは、それらの名文を作品として解釈するのが目的ではなく、あくまで文章の読み方・書き方として参考にしてほしいということです。したがった私のコメント(*印)も文章として学べる要点だけを記しました。(講師)

それでは始めましょう。

《近代日本文学から》

 二葉亭四迷「模写といへることは実相を仮りて虚相を映し出すといふことなり」明治19年『小説総論』 
*文章表現も、実相(そのものの本当の姿)をよく観察することから始めましょう。

② 夏目漱石「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」明治39年『草枕』 
*有名な小説の有名な言葉。3つを対比して結語を導くと説得力があります。

③ 森鴎外「芸術に主義と云ふものは本来無いと思ふ。芸術その物が一の大なる主義である」明治44年『文芸の主義』  
*個別のものを述べる(前者)か、総括したものを述べる(後者)かのヒントになります。

④ 志賀直哉「人間は―少くとも自分は自分にあるものを生涯かかって掘り出せばいいのだ。自分にあるものをmineする。これである」明治45年『日記』より  
*今はやりの「自分らしさ」を探求するのも文章です。(㊟私―講師の好きな言葉です。)

 阿部次郎「物質の価値はすべてこれを所有する人格の反映である」大正10年『人格主義』 
*物と人を対比して人を上位におく考え方のヒントになります。

 芥川龍之介「人生は一行のボオドレエルにも若かない」(㊟若かない=如かず=及ばない。ボードレールはフランスの大詩人)昭和2年『或阿呆の一生』  
*芥川特有の<誇張表現>ですが、どちらかを引き立てる狙いです、どちらでしょう。

 横光利一「象徴とは、内面を光らせる外面である」昭和2年『笑はれた子と新感覚』 
*内面(内容)を最も効果的に表す言葉(象徴する)を引き出すのが表現力の勝負です。

 島崎藤村「木曽路はすべて山の中である」昭和4年『夜明け前』
*全体象徴というか、山の中にひっそり隠れているような「木曽路」ひとつで物語を<暗示>しています。(㊟私の最も好きな<書き出し文>です。)
⑨ 倉田百三「青春は短かい。宝石の如くにしてそれを惜しめ」昭和11年『愛と認識との出発』 
*「青春」=「宝石」の図式で考えられますね。皆さんも<比喩>の語彙を鍛えてみては?

 三木 清「人はその人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである」昭和16年『人生論ノート』
*人生=旅という比喩は多くの文人作家が用いている言葉ですが、ここでは読書のすすめの1冊に挙げておきます。

 高見 順「喜劇は常に悲劇である」昭和21年『わが胸の底のここには』
* これは逆転の発想というか、よほどの洞察がなければ言えない言葉、つまり、あまり「見習」ってはいけない名言です(笑)

 小林秀雄「模倣は独創の母である。唯一人ほんたうの母親である」昭和21年『モオツアルト』
*有名な<アフォリズム>(警句・箴言)で、私も好きな言葉です。模倣と独創は反対語ですから、これも⑪と同様、真似るに難しい用法ですが、良い文章を<模倣>して練習するのは、上達の近道ですよ。
⑬ 中村光夫「自己批評するには、まずその批評の対象になる自己を持つこと」昭和25年『風俗小説論』
*これを文章学習に置き換えると、つねに自分という人間を見つめて文章を書く姿勢が肝心だということですね。
⑭ 大江健三郎「僕には希望を持ったり、絶望したりしている暇がない」昭和32年『死者の驕り』
*~たり~たりで並べるとき、両語句が類似しないことが肝要。これのように反対語を並べるときは、「暇がない」のようなサビが効かないと平凡になります。

ここから《外国版名言集》

⑮ 「自惚れと好奇心とはわれわれの心の二つの災禍である」モンテーニュ(16世紀フランスの哲学者)『エセー』
*自惚れはわかりますが好奇心がどうして災禍なのか。二つ並べてはいるが、その一つが「言いたいこと」であと一つは、誰もが知っていること、そういうヒントでどうですか。

⑯ 「われわれの美徳は、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」ラ・ロシュフーコー(17世紀フランスの貴族・文学者)『箴言と考察』
*<皮肉>の典型で、「ほとんど常に」と全面的に言う(中には、などと正直に言わないこと)のが効き目。
⑰ 「五字書くごとに、わたしは三字を消す」ニコラ・ボワロー(17世紀フランスの詩人)『サタイア』
*「わたしは」の位置がおかしいですが、それはともかく、<推敲>の重要性はすでに紹介しましたが、自分の文章を過信しないことも大事だと付け加えます。

⑱ 「芸術が人生を模倣するよりも、人生のほうが芸術をより多く模倣する」オスカー・ワイルド(19世紀アイルランドの詩人・劇作家)『意向集』

*芸術派作家らしい言葉ですが、身近なもので「模倣」するものを考えてみては? たとえば、命・植物・天気・等々。

⑲ 「生活はすべて次の二つから成り立っている。したいけれど、できない/できるけれど、したくない」ゲーテ(18世紀ドイツの文豪)『格言と反省』
*大作家にしては平凡? そんなことないでしょう、なるほどと思いませんか。日常生活にも考えるヒントがあります。

⑳ 「幸福な家庭は皆たがいに似ているが、不幸な家庭は一つ一つ独特に不幸である」トルストイ(19世紀ロシアの文豪)『アンナ・カレーニナ』

*これもまさに「なるほど」ではないですか。あなたの文章にも応用(または引用)できる名言です。

以上で終わりますが、名文・名言はいくらでもありますから、みなさんも見つけてください。私は、学生時代に志賀直哉のあの明晰な文章を「書き写して」練習したものです。ただし、名文・名言をそのまま写して自分のものとして「発表」してはいけませんよ(盗作や毀損等の法律違反になりますから要注意)。「引用」は許容されますが、上記のように必ず「出典・出所」(作者と書名・題名など)を明記してください。

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《トピックス》~記述式入試~

記述式入試、〇か✕か~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 お上(政府)が入試の問題で右往左往している。迷惑をこうむるのは受験生諸君です。
 国語と数学を<記述式>に統一するという目論見は、先般また白紙に戻されました。技術的に難しいと各方面から難色を示されたからだそうです。いえ、〇✕式のように効率的でないから、うまみがないからでしょう。以上は全国テスト、おもに国公立の一次試験の話で、二次試験や私立では昔から記述式がありましたよ。私も予備校で小論文を担当し早稲田模試や慶応模試に携わり、また記述の問題作成もしてきました。この「文章講座」は中学生にもわかるようにしていますが、文章力の養成は中学から、あるいは日常から行わなければ意味がありません。それは単に入試用の付け焼刃ではなく、表現力を中心に感性をも育て個性豊かな人間教育のためでもあるからです。受講者の皆さんの健闘を祈ります。
抽象2.JPG
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(講師)

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